3月11日の昼過ぎ、私は東京でいつものように会社で仕事をしていました。
始めは大したことなかったのですが、揺れはどんどん大きくなり、これはマズイとみんな机の下に潜ったり、出口付近の人はコートを着て脱出する準備を始めていました。
かなり長いこと揺れが続いたので念のために作業中のファイルを保存して(笑)外に避難しました。
その後も何度も何度も揺れが来て多くの人が屋内から出てきており、車も道路上で停まっていました。
ここから社内の全員が、家族に連絡を取ろうとし、情報を得ようとしはじめます。
もちろんいろんなツールを使って、家族や親戚の安否を確認しようとしたのですが、それぞれ一長一短がありました。
その中のいくつかをまとめてみましたよ。
■携帯電話、メール
会社と会社の間では比較的通じていましたが、携帯は地震発生から1時間は全くアウト。
携帯の災害用伝言板もi-modeに繋がらないので使い物になりません。
ダンナの携帯には2時間後くらいに連絡が取れ、東京武蔵野にある私の実家の家電にも2時間後には通じました。
歩いて帰宅する最中、なぜか何度も圏外になり、夜中に自宅に着いた時にようやく回線が安定、大量のメールと留守電がなだれ込んできました。
当然ながら岩手県釜石市へは全く通じず、現在でも場所によってはかかりません。
■ネット
東京にいる分には何の問題もなく使えましたよね。
三陸にとてつもなくデカイ地震がきて大津波警報が出された、という情報はまずネットで知り、目の前が真っ暗になりました。
三陸沿岸の市町村サイトはサーバーが壊れたり流されたためでしょうか、すべてNotFoundに。
海沿いや内陸に設置されていたウェブカメラもダメ元で見てみたのですが、やっぱりダメでした。
Googleのパーソン・ファインダーで釜石に住む親戚の名前を片っ端から登録しましたが、2日後あたりまでは「私も探しています」の返事しかもらえませんでした。
ツイッターもブログも掲示板も、「人を探している」「あそこはどうなった」ばかりで、現地の人からの情報はただ「沿岸がえらいことになってる『らしい』」のみ。
悪質なデマもものすごかった、あれは悲しいを通り越して同じ日本人として情けなくなりますね。
初めて親戚の無事が確認できたのは震災から3日後、親戚を保護してくれた見ず知らずの方からのパーソン・ファインダーへの書き込みによってでした。
■テレビ
さすがにテレビ回線は強いですね。
津波の第一波が釜石に到達した様子はリアルタイムでワンセグで見ました。
携帯でワンセグをちゃんと見たのは、携帯を買ってから初めてでしたが(笑)、その初めてがけっこう役に立ちました。
ただ、ものすごい勢いでバッテリーを消耗するので、あまり長時間は見られません。
私の親戚が釜石にいることを知っていた社員が「あなたは電池を無駄遣いしないで私のを使いなさい」と携帯を貸してくれました。
歩いて帰ったときも沿道の電気屋さんが街頭にテレビを出してくれていて、気仙沼が炎に包まれるのを私を含め帰宅困難者全員で呆然と見ていた記憶があります。
中心街や報道が入ったところの被害状況は刻々と入ってきましたが、親戚が住む地域などピンポイントの状況は、「あそこにここまで波が来たってことは」と想像するしかありませんでした。
■固定電話
ほとんどお会いしたことのない遠い親戚からも連絡がきましたが、いずれも「誰々の安否は分かるか」というものばかりで、とにかく現場の様子が分からない。
こちらも親戚との連絡が取れたのは3日後以降。
いずれもあまり喜ばしい情報ではありませんでしたが、とにかく詳細が分かったのはかなり経ってからでした。
結論として、「ネット・携帯は災害に強い」という話は私にとって全く当てはまりませんでした。
基地局が被災した現地はともかく、単純に回線に負荷がかかっただけでアウトでしたし。
被害の少なかった場所にはかなり早く連絡が取れたのですが、一番知りたい現地の情報は数日後まで全く分からず、被災者も外部の者もただ悶々と過ごすしかなかった、というのが正直な感想です。
一番強かったのはテレビでしたが、これもたとえば電波塔がぶっ倒れるとか、テレビ局が被災するなどといった事態になったとき、被災地ではもう何も手段がなくなるということになります。
実際、今回は大規模停電が起きたために、テレビを含めすべての情報手段が途絶えて、ちょっと内陸の人たちは何が起きたのか全く分からなかったそうです。
最終的には海沿いまで自分の足で見に行って「なんなんだこれは」となったと。
意外とワンセグががんばりましたね。
携帯買ったときは「こんなもん絶対使わない」と思ったけど、今はあって良かったと思っています。
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